千利休の思想を受け継ぐ茶室

表千家・裏千家・武者小路千家・藤村庸軒など

Tea room introduction from Sen no Rikyu

様々な茶室専門書をまとめたものです。【参考文献】
・「茶室の見方」主婦の友社 ・「全国名茶室案内」婦人画報社 ・「古典に学ぶ茶室の設計」建築知識
・「数奇屋建築詳細図集」住宅建築別冊 ・「京の茶室」婦人画報社 ・「茶室案内No.1~12」淡交社

ここで紹介している茶室は、千利休が手掛けたと言われる茶室、それを復元した茶室で、書院や黄金の茶室など、武家や貴族を迎えるための茶室も含まれています
千家流茶道を実践した茶匠(藤村庸軒)の茶室も紹介していますが、千利休の弟子でも武家流の茶室は入れていません。

侘び茶を完成させたのは千利休と言われていて、茶の湯の精神から、茶事の所作、茶道具、茶室まで全ての侘びの形作りをしたことが『侘び茶を完成させた』と言われる由縁です。書院や黄金の茶室ですら随所に侘びの精神を感じるとことがあります。

待庵(たいあん)国宝

『待庵』は千利休が作ったと言われる、始めての草庵茶室(侘び数寄屋)です。
極小2畳の、とても有名な茶室です。(国宝)
待庵が作られる以前は、書院造りがフォーマルな空間として使われていましたが、利休により、草庵空間が客間(フォーマル空間)として使われるようになりました。

『躙口』も初めて付けられていますが、現在の一般的なサイズより大きいです。
待庵 高さ=2.6尺(787) 幅=2.37尺(718)
現代 高さ=2.3尺(697) 幅=2.1尺(636)
茶室の出入り口を、広縁から『躙る』プランニングにした時、同じ高さで、躙るのは出入りがしにくいので、私は待庵のサイズを提案するこにしています。
■ポイント解説
杮葺き(こけらぶき):瓦が使われる前からある屋根の葺き方で、サラワや杉の木材を薄く割った板を、幾重にも重ねて、竹の釘で止めながら葺いたもの。
へぎ板:板を薄く剥いだもの(ノネ板とも言う)表面が凸凹していて詫びた風情を持つ。木の繊維を壊していない(切っていない)ので耐久性が良いと言われる。
下地窓(したじまど):土壁を塗り残したように下地の葦を見せる意匠の窓。本当に塗り残すのではなく下地の小舞とは別に葦を組み合わせる。
現代は葦の代わりに竹を使うことも多い。
【待庵】起し絵図のダウンロードページはこちらから

待庵 茶室
クリックでPDFがひらきます

不審菴(ふしんあん)

表千家全体の総称でもある、表千家の茶室『不審菴』平三畳台目の紹介です。
もとは利休が大徳寺前大阪屋敷の四畳半に不審菴の扁額をあげていました。
その後、深三畳台目と三畳敷道安囲のいずれかに、千家の象徴として不審庵の扁額をあげています。
現在の平三畳台目は江岑が父宗旦とはかり考えられ、以後継続した間取りと席名ですが、明治期に火災にあい大正期の惺斎の代に再健されています。
今もとても美しい仕上がりで、表千家、そして千利休の千家を象徴する素晴らしい茶室です。

不審菴は茶道口が特殊で、風炉先から入り点前座でUターンして座ります。
これは炉の季節で、風炉では点前座は変えて使うようです。
これなら『平3畳の茶室』として使えますし、炉の季節の点前座は『待庵の前室』のような位置づけになります。

クリックでPDFがひらきます

残月亭(ざんげつてい)

表千家の広間『残月亭』は、小庵(利休の子)が千家の再興に際し聚楽屋にあった、色付九間書院の特徴を再現した茶室です。
床の間横(付け書院前)の化粧屋天井の突上窓から秀吉が月を愛でたといわれ、席名のゆえんとなっています。

十畳+上段二畳の茶室で上中下段の構成で、長押はなく、天井も低く、化粧屋根裏にするなど、書院造りのいかめしさを抑えている風情で、安らぎ感を作りながらも格式高い素敵な空間です。

東京新宿の、柿傳(茶事も出来る京懐石)にも『残月亭』の茶室があり、馴染のある方も多いのではないでしょうか。

クリックでPDFがひらきます

今日庵(こんにちあん)

裏千家を代表する茶室で、元伯宗旦が屋敷を江岑に譲り、隠居所として建てたと言われています。

一畳台目に向板を入れた茶室で、炉は『向切』に切り、袖壁を付け、その中柱4.6尺の高さに花入釘を打っています。そして置花入は向板を用いて飾ります。
つまり点前座周りも床の機能も果たしているわけで、狭いながらも空間をとても有効活用しています。
点前座周りの腰張りは、飾る空間にするため貼っていないです。

水屋洞庫の扱いにも言及した茶室で、洞庫は下が簀子流し、高さ1.29尺に一重棚で水屋を凝縮したような構成で広いです。亭主は座したまま茶道具を片付けられるという、年を取ればとるほどありがたさが増してくる茶室です。 

今日庵の銘は元伯宗旦の参禅の師、清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の命名とも、古径和尚の「不審花開今日春」から不審菴に対する今日庵の命名とも言われています。

クリックでPDFがひらきます

又隠(ゆういん)

今日庵と共に裏千家を代表する茶室の一つで、利休の孫の宗旦が、利休が聚楽屋敷に作った四畳半と同じ構成で再現して作ったといわれています。
その特徴は、茶室は四畳半を基本としますが、その典型ともいえる四畳半の草庵デザインです。現代でもこの写しの茶室を、ご自宅い作る方が多くいらっしゃいます。

天井仕上げが、へぎ板網代の平天井で、躙口側の半間を化粧屋根裏にした、シンプルで侘びた風合いの美しい茶室です。

さらに工夫を凝らしているのは、点前座の入隅を塗回して上部に楊子柱を見せ柳釘を打っていたり、また、点前座に洞庫をつけるなど、飾りもお点前の流れも考慮した繊細な気遣いを感じる茶室です。

■ポイント解説
楊子柱(ようじばしら):部屋の隅の柱上部を、部屋側に膨らませ、塗り壁を上部だけ塗り残したもの(楊子のように柱が見えるから)。
現代の茶室では、後から楊子柱の部材を付けることが多い。
洞庫(どうこ):点前の途中で、茶道具(お茶碗、建水など)を仮置きするところ。
化粧屋根裏(けしょうやねうら):天井を張らず、屋根裏の構成を室内に見せる形式。垂木(たるき)の上に木舞(こまい)を配列し裏板が張られるという屋根裏を天井に見立てたもの。材も構成もきれいに整えるところから化粧屋根裏という。
花入れ釘(はないれくぎ):床柱に打つ、花入を掛けるための釘
仙叟(せんそう):千仙叟 宗旦の子供 裏千家四世

又隠 茶室
クリックでPDFがひらきます

寒雲亭(かんうんてい)

宗旦の好みと伝えられ裏千家で最も古い書院です。
この茶室は、正客がとても心地よく過ごせる間取りで、私は大好きです。その理由は、
・茶道口が正客の正面なので、亭主丁寧な挨拶を正面から受けれること
・点前座が踏込み畳なので、お点前が正客に背中を見せないで出来ること
・正客の座からのインテリア風景は、正面に亭主/右前が付書院/右手が四畳が船底天井と高く、南の露地の光が廻る明かるい空間が広がっている、心地良い風景が見えるからです。

茶室の勉強を始めた頃は、船底天井があり、八畳なのに入炉でしかも点前座を上げて切っていると『単に変わっている茶室』としか感じなかったですが、実際に茶室の設計をするようになってから、寒雲亭の『正客への心使い』が解って茶人宗旦の魅力を再認識いたしました。
茶室での茶の湯の流れをシュミレーションすることで、茶室の本当の良さが見えてきたのです。

茶室内の仕様は、長押はなく、柱も貴人口の一本を除きすべて丸太で侘びています。
露地側に小縁を設け貴人口を付けてます。その横は中敷居窓を付け南面(船底天井側)の明るさを活かしています
また、床の間内の左脇(柳の間側)には獅子垣窓を付けて、床の間の明るさも考慮しています。

クリックでPDFがひらきます

官休庵(かんきゅうあん)武者小路千家

武者小路千家を代表する茶室 官休庵の紹介です。
宗旦の次男一翁宗守(いちおうそうじゅ)が高松藩への仕官を辞し、隠居所として建てたと言われています。

一畳台目の茶室で、待庵、今日庵と同様の狭小の茶室です。
その狭さを緩和するために、点前座と客座の間に5.1寸の半板を入れ、道具を置く場を確保しています。
また、茶道口は板畳の脇に火灯口を開け、亭主の出入りと茶室にゆとりを感じさせます。
 
風炉先の壁が半板分広いので、風炉先窓がゆったり見え、狭いながらも要所要所にゆとりを作っています。

クリックでPDFがひらきます

澱看の席(よどみのせき)

藤村庸軒の晩年の作と言われています。庸軒は宗旦の直弟子で、茶道庸軒流の開祖です。
この茶室は『道安囲い』で客座と点前座の間に間仕切り壁を建て、開けた火灯口から客と接する構えです。点前座を次の間的に位置づけた、亭主の謙虚な姿勢を示す侘びた思想です。

そのため、客座側は床の間が強調されて、たまさにフォーマル空間になっています。さらに狭さを感じさせない、明るい窓の取り方や、点前座まで一続きの総化粧屋根空間作りは『お見事です!』と言わざるを得ない素晴らしい茶室で、私の好きな茶室です。

■ポイント解説
藤村庸軒(ふじむらようけん):千宗旦の高弟で、明治時代に『千宗旦四天王』の一人と言われています。
道安囲い(どうあんがこい):茶室の客畳と点前畳の間に仕切り壁を設け、亭主は仕切り壁につけた火灯口で客に接する形の茶室
千利休の嫡子千道安の好みとして伝えられます。

クリックでPDFがひらきます

黄金の茶室(きんのちゃしつ)MOA美術館

豊臣秀吉が、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に設置した組立式の『黄金の茶室』として有名です。
図面などは全く残されて無く『幻』の存在で、当初は秀吉の悪趣味の象徴と言われていました。
しかし調査が進み『この茶室の発想も利休の美学から矛盾するものではない』との見識を打ち出したのが、MOA美術館に復元の監修を務めた、数奇屋建築の大家、堀口捨己です。
・点前座に黄金の台子/皆具の道具組
・全体を金と赤でまとめ上げたデザイン
畳の赤は猩猩緋(しょうじょうひ)色と言われ、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易の舶来品で珍重された色
・当時の小御所の書院造りは薄暗く襖絵も無い質素な空間と思われ、その中に一輪の華を据えるようにデザインしたのではないか(藤森照信談)
壁天井:金装(格天井/柱/床框/敷居/鴨居)
壁は4.6寸程(139㎝)の板を横に重ね張り
(御所への搬入と金箔貼りを考慮して)
建具:金装 框/桟/腰板
障子:赤色紋紗(もんしゃ)紗の透ける所/平織りの透けない所で文様を織り出す
畳表:濃赤の羅紗地(らしゃ)紡毛を密に織り起毛させた、厚地の毛織物)羅紗地の下に真綿敷き
畳縁:紺地の金襴 文献には他の地色に黒地/萌黄色(もえぎ 黄がかった緑)があり特定できていません
【黄金の茶室】起し絵図のダウンロードページはこちらから

クリックでPDFがひらきます